不安。になる事ってありますよね。その多くのことは、以外の目の前のことであることが多いのではないかなと思うのです。
きっかけはちょっとしたことだったのに、人間関係や仕事、恋愛などで、気づけば「不安」が大きなモンスターになるなんてことがないですか?
ほんとにこのちょっとした、ちょこっと思った「不安」が黒いわたあめのように膨らむことがあるんですよね。
私がその存在を自分で認識したのが今から10年前くらいのことでした。それから、なんだかわからないけれど、その黒いわたあめさんは見事にいなくなりました。
今日は黒いわたあめさんがなぜいなくなったのかについてお話ししていこうかなと思います。
まず、誰の中にも"黒いわたあめさん"はいる
どこから来たの?なんで来たの?そう声をかけたくなる謎の存在「黒いわたあめ」私が今そう、名付けたのはいわゆる「不安」である。この人間というものは、白いわたあめも黒いわたあめも持っている特殊な生物だ。
人は黒いわたあめに気がつくと、その存在を頑張ってどうにか退散してもらうか、消そうと頑張ることがあるのではないか?
自分の中に黒い存在など。要らない、綺麗で、優しくて、豊かでありたい。そう誰もが思うのだろう。
それもそのはず、認識する時誰もが、否定したくなるからだ。
だけど、その存在は必要だから間違いなくそこに存在するんだという事をまず認識したいものだ。
多くの人は、このなんだかわからない「不安」という感情に、大きく振り回されることがある。
一体何が起きているのかと思う急な不安感
昨日までは良いことがあったというのに、今日はなんだか気分が上がらない。そんなことがあるだろう。女性の皆さんならわかると思うが「生理」の前の症状に近い感覚だと思う。え!私ったら何を不安になっているの
↓
生理
↓
な〜んだ、それならこう「不安」にもなるよね。
こんな経験が一度はあるのではないかなと思う。閉経しても、子宮のエネルギーはそこにあるので、女性という生き物は、不思議なことに何かに支配されやすい。
そう生理の前なら「不安」になるのも自然現象のようなものであったり、満月や新月も私たちは身体、心に影響が出やすいように思う。
そういう影響がわんさか来て続くようならば、不安症といえば大げさかもしれないが「なにか」自分の中で気付きたいことがある可能性もある。
「不安」に放置と、スルーはよしたい理由
誰もが少しの「不安」はなかったことにしようとしたり、機能性だとスルーし放置したり、その出来事ごとをポジティブ変換しがちである。だけどその一つ、一つになんらかしらの意味があったとしたならば、それは蓋をするのではなく、早めに対応してあげたい大事なサインであることがある。
例えば、自分の不安でたまらない感情が出やすいのが「恋愛」だと思う。
なぜか、毎回恋愛がうまくいく人と、いつもなぜだか恋愛はうまく行かない人がなぜかいるのではないだろうか?
何が違うのかというと答えはとってもシンプルで。
そこに自分が「覚悟」を決めているのかどうかということだけだ。
そう、覚悟を決める人は自分が幸せになる覚悟をしている。つまり、自分の不安との向き合い方がそもそも違うということになる。
あと一歩、そんなシチュエーションに出会う
あと少しで目標まで到達できそうでできないことがあるとする。例えば恋愛で、好きな人まではできるのに、相手に相手がいたり、なぜかタイミングが合わないということが起こる。それは目の前で見れば”たまたまタイミングが合わない””恋愛はタイミングが大事”と片付けることが多いと思う。
しかし、これは違う場合もある、そのタイミングで出会ったということに双方の何かしらの意味が隠れているということだ。
宇宙から見ると、私たちの恋愛事情なんて「良い」も「悪い」もそもそも存在しない。笑
いうならばそんなのどうでも良いことだ。笑そしてその恋愛で不安になったり心配になったり怒ったり、ますます知ったこっちゃないというシチュエーションなのである。
なぜ人は「不安」に惑わされるのか
それは、不安になれば、その波動の領域にい続けることができるからだ。つまり、誰かのせいにできたり、誰かを心配できたり、かまって欲しいのだという「甘え」を出すことができたり、誰かに傷つけられることがあったとしても逃げることができる。そして多くの場合その「不安」から抜けたいがために(ほんとは抜けたくない)何かや、人や、占い師、スピリチュアルなどに「依存」するのである
人のネガティブ状態を利用することができる職の人たちは、この状態でいてくれることを喜ぶかもしれないということだ。
私の過去はまさにそうで、いつまでもこの領域にいて、このループをぐるぐると回り、いつかはそこを抜けることができるのだと。そう思って生きて来た。
しかし、自分で決めて来たようで決めて来ていなかった私は何かあるごとに「不安」になり、一体どんなことがあったの?という絶望感に悩む日々が多かった。それは依存性があり、いっときはスッキリしても、またすぐ「不安」の繰り返し。
そこから抜けるのはあっけなく
あっけなくその波動の領域から抜け出せることがある。それはまるで、黒から白になるようなそんなワープのような瞬間だ。今までの私はなんだったのであろう。そう思う。私は何を「ジャッジメント」し、勝手に黒にし、何をそんなに悩んでいたのか。我に返るそんな感じだった。
今まで地下にいた。そんな感じの感覚だ。紛れもなくそこにたどり着いたのは自分の足で、進もうと思ったから。
なんということだろう。その「不安」のたね(黒いわたあめさん)は、そもそも自分が作り上げていただけのものであった。
つまり不安症なんというもの自体が実は「存在」しないということになるのである。
ということで、私は捨てても捨てても無くならなかった「不安症」があっけなくなくなりました。
波動と書きましたがそこにハマる言葉はなんでもOKです。気分、オーラ、雰囲気、魂、人格、エネルギー。このようななんだかわからない世界があったとしてもなかったとしても、波動が上がれば、「勝手に」不安は消えます。とらわれなくなるからですね。
まとめ
実は「黒いわたあめ」(不安)こそ、感謝するべき存在だということ。消そう、無視しよう、蓋をしよう、やっつけよう(笑)人は色々なことを思うことはあるだろう。これからもその現象はきっとやってくる。だけど、なぜ目の前に「不安」になることがやってくるのか。ここに気づいてしまった方が早い。
そしてそのことに関すること以外の分野で「自分」が何かをないがしろにしていることや、無駄な勘違いで起こる「不安」や「心配」こそが最大の無駄なごみであるということだ。ゴミを自分でため続けるとなかなかうまくいきにくい。
お部屋のお片づけと一緒だ。なんでも捨てればスッキリ!じゃあ意味がない。
なぜそれが要らないのか、本当の意味はもっと深く心の中に何かあることが多い。
何もかも捨ててしまいたい、不安だから、うつだから、変わりたいから。そういう人も多いだろう。だけど、根本はもっと"近く"にあるはずだ。探してみよう